偏屈な男の焼く、美味しいパン。

株式会社はなみち
代表取締役社長 宇都賢一

時代は80年代の終わりから90年代のはじめ、ロックが商業的にもメインストリームで、団塊ジュニア世代の僕たちはやたらと人数が多く柄が悪かった。

最初に断っておくが、谷雄一という人とはそれほど親しいわけではない。

彼とは同じ高校の先輩後輩で彼が一学年上で、僕がバンド活動にのめり込むまでは同じサッカー部でポジションも同じフォワードだったと思う。そしてバイト先も同じだった。
バンド活動にのめり込むにつれ楽器や機材、スタジオ代とそれなりのお金が必要になり、彼がアルバイトしていた居酒屋を紹介してもらい働くことになった。元々人数の少ないサッカー部内でたいして親しいわけでもなかったし生意気な後輩くらいにしか思ってなかったはずで、彼は一緒に働くことについてあまり良い顔をしなかった。むしろあけすけに嫌そうな感じであった。とはいえ、授業を適当に終えて近江八幡から彦根まで電車に乗って駅前の居酒屋で一年間くらい一緒に働いたと思う。行き帰りの電車ではもっぱらギターの話(彼は忌野清志郎フリークで僕は高崎晃(ラウドネス)フリーク)で互いに相手の話には適当に反応して自分の音楽について熱く語った。人のまばらな電車の中でギター弾いたりもよくしたと記憶している。

最初に断ったように「それほど親しかったわけでもないが、青春期の割と多くの時間を共に過ごした」という意味で互いを感情抜きに冷静に見られたかもしれないし、とてもレアな関係性だったように思う。

その後彼は京都のホテルに就職して最後にパン職人として自立するのだが、その間のことはほとんど知らない。なんどか会うこともあって、相変わらず偏屈だなと感じていた。それは今も変わらない。

ただ、壱製パン所のパンは美味しい。それはほんとにそう思う。
『偏屈な男の焼く、美味しいパン。壱製パン所』、このコピーをプレゼントしたい。
彼が心酔していた忌野清志郎のアナーキーな思想からすると、今の彼の保守本流的な一面は意外な風に見えるかもしれない。
しかし、僕からすればそれは昔のままなのだ。正義とか平等、整合性、論理のようなものより、彼は半径10メールの身近で親しい人を理屈抜きに大切にする人だった。それこそが保守本流の美風で17歳の彼は既に完成した保守だった。

彼は修行の後、故郷の近江八幡に戻りパン屋を開業する。田舎の閉塞感が嫌で早々に飛び出した僕とは正反対だ。
とはいえ、彼に故郷愛があるわけではない(と思う)。彼が大切なのは半径10メートルの大切な仲間たちとのコミュニティだ。
もしも将来、紛争が起きて戦禍の中、故郷を追われることになっても、彼は親しい仲間を引き連れて見知らぬ土地でパンを売り、華僑の如く活躍し逞しく居場所をつくるに違いない。
場所はどこでも良いのだ。

何十年か先、そうではない平和な世の中で、偏屈な男の焼く、美味しいパン屋が、近江八幡の人々の間で愛され続ける長閑な未来を願いたい。

宇都賢一